「」 

20260906


 顔を上げると雨が止んでいた。

 僕は数日前まで当然のようにあったはずの油蝉のノイズを背景にして、ねじれてへたった体幹とそれを指定した退廃が雰囲気に滲んでいくのを感じていた。 僕がいまここにいるのはどこか遠くの風景を撮りに来たからだ。 ちょうど目に入っただけの朽ちたバス停は、少なくとも当面のあいだはそういった僕の目的に有用なはたらきをしないらしかった。でもそれでいい。ちょうどそれでいい。そうか、つまり……僕はまったく「」 でない場所で自我を形成し、それをすっかり内面化してしまったのだ。「」 だとかいうある種不自然な言葉遣いをしたのも、たとえばそうでない状態に対して「適切」とか「正常」とか、そういったタイプの感覚を抱くことを空想できなかったというのが実情だった。そうでないなら僕じゃない。そして、所定の段階は、もしかするとこれを完全に代替することもできるのかもしれないが、それ自体がそれを原理的に意味のないことへと成り果てさせてしまえることも同時に意味している。こうなってしまっては対象を宥める以外に平静の維持のしようがない。

 現状の歩行は僕の代わりに記憶を保持する/そしてそれをぼやかしていく再生が実行していた。本来もはやそれも必要でないことを考えればここで朽ちていくのも悪くなかったはずだし、それに理由を与えようとすればきっとなにかしらを思いつくことはできるんだろうけど、そういった奇妙かつ不可逆な合理化ないし物語化をすることが よい ことだとはとても思えなかったので、そのまま、僕はひとまずこの時間に乗って、半自動で進んでいくその風景を眺めることにした。誰だって全く成長しないことはできないからね。悪い意味で。

・生は死より優れている状態ではない
・現実は夢より優れているものではない
・自殺だからといってほかの死より劣っているというわけでもない
・最後の一押しはどんなに些細なものでもいい ものをなくしたことに気がつくとか、充電が切れたとか、誰かから電話が来たとか
・他人からの評価が上昇したとて、べつに自分の能力がなにか成長したわけでも必要な思索が深まったわけでも全然ないでしょ?
・それにそもそも人生には進歩が必要じゃない。

 いつか、そのまま進んでいると小さなトンネル、いや、この古びように倣って隧道と呼ぼう、僕は小さな隧道に入った。出口の先の文字の存在を認識できるくらいのちっぽけなものではあるが、それでも外部との呼吸のされ方にはいくつかの差異が見受けられた。移動の停止を決定するとともに壁に寄りかかってそのまま座り込むと、背中のほうからひんやりとした複数の思索が内臓に伝わってきて、そのまま僕を透過していった。 そうしてしばらく立ち上がれる気がしなかった。

 ああ、もしここで眠れないなら、僕はきっとどこかへ帰らないといけない。行き先は知らない。存在し得るのかもわからない。けどここで、完全に 問題なく眠れるのなら帰らなくてもいい。ずっと帰らなくてもいい。

 意図せずじぶんの手をあたためようとしているうちにようやく少し眠たくなってきたものの、風の通る音はこの場所が逃避の出発点の1つであることを知らせてきていた。この問題をできるだけ早く解決する必要がある。できるだけ早く解決しないといけない。もし解決に失敗しても、その状態で存在していることに耐えられないなら、やっぱりどうにかして解決しないといけない。それは理想的には僕の肉体を空間に縛り付けて各所の緊張の程度を過剰な状態に設定し続けるもののひとつを消去するということでもある気がするけど、それ以上のことは知らない。現実的にはどうかとか、それが具体的にどの箇所にあってどういう見た目をしているのかとかを知らない。だからどうせ別のものを巻き込んでしまうだろう。もしそれで眠れなくなったらどうだ、さらに自由に死ねなくなったらどうだ。

 まだ、まだ遠くへ、遠くへいかないといけない。ここじゃないってことは他のどこかにあるんでしょ?あるべきところが。どこかにあらなきゃいけない。それに、ない場合を考慮しても意味がないし、したくない。千歩譲って仮にしたくなったとしても、そうする程度の力ももう残っていないだろう。できるだけすぐにそうしなければいけないとわかっていても、駄目だ、だってここじゃないんだから。たしかに今日の僕は予定通りに眠れなかったかもしれないけど、どこでもうまく眠れないなんて、そんな話があっていいわけないんだから。いいわけがない。だから全部ずっと嘘だ。

 とりあえずこの先の先にある、次の標識まではどうにか歩いてみよう。広がった視界のどこかに眠れそうな場所があればそれだけでいい。だって、夢を見に来てるんだっけ。そしてそこで写真を撮ろう。それ以外には必要じゃなかったって言いたいだけだと思われたとしても、実際にそうだったとしても僕たちには知ったことじゃない。だからもうそれでいいよ。 喉が渇いたことにも気がつかなければいいのにね。