罪(ざい)
20260712
ほとんど空っぽになった最寄りの駅を出ると、もう日付は変わる頃で、少しの雨が降っていた。今日も案の定とくに得るものはなかったけど、それでも家には帰らないといけない。歩行者用の信号が赤から青に変わろうとして、暗い色の車が急いで目の前を通り過ぎていったとき、その車体に僕の外身が反射している瞬間の、ちょうどそれだけが音に置いて行かれて、しばらく光景に静止していた。僕は信号が完全に変わりきった後も、そのまま歩みを進められずにいた。
(…………少なくとも、今日のこの場所で違法、illegalな行為の一種である二十歳未満の飲酒や喫煙は、もちろん本来の罪、sinとして十分に認められる程度に存在している行為じゃない。絶滅傾向にあるわけでもない植物を適当に採って適当に加工して適当に利用しただけだから。ただ健康にかなり悪く違法なだけの行為、二十歳になったその瞬間にいきなり許されるようになることや種々の海外事情も踏まえればより道徳的な批判はしにくくなる。『遵法意識が低い』くらいは理屈に則って言えるかもしれないけど、その程度でしかない。自分自身の健康を害するだけだ。だれも被害を被らない。食事の栄養バランスが悪かったり運動不足だったりするのと同じジャンル。
それらが直ちに廃棄すべき法であるとまでは言わないけど。制度上あったほうがよくそれを社会が合意しているのであれば別にそれでいい。場合によってはペナルティも伴うだろう。たんなる不健康志向に罪人の名状を与えて罰するのが自然かと言われると素直に肯んじはしないけど、一定の合理性は理解できる。ただそれでも、ただ違法なだけだ。
ただ違法なだけ。怯える意味もないから、ここであえて妙な人々が誤解しかねないシンプルなかたちで断言してやってもいい。)
「二十歳未満の飲酒・喫煙は悪くない」
(んで、つまりこれは『違法性は最低限の閾値を超えているが罪性は他の違法行為と比較して低い状態にある』と言い換えることができる。
違法薬物の類いも違法性は高いかもしれないけど、それ自体に限り二次影響を出さないのであれば罪性は低い。まあ少なくとも現状では付随する環境がそれ以外の罪らしきものに卑近であるから単体でその結果を得るのは難しいんだろうけど、違法薬物の使用それ自体について大した批判が可能であるとは思わない。
こういう違法性と罪性の乖離に関しては、より極端な事例だっていくらでも存在する。それは法律側に明らかな不足や過剰がある場合、悪法と呼ばれるものはまさにその最たる例であって、形式上は法として成立していても、その内容が明らかに不当であれば、それに反することの罪性は低下する。法律そのものの側が罪に接近している状態と言ってもいい。
法的には問題にならない、あるいはなりにくいけど多少は罪らしいことも、やっぱりいくらでもある、はず、あんまり良い例が今は思い浮かばないけど。でもたとえば、明確な嘘を言わずに相手が誤解することを期待して黙っていることとか。これらが法律違反になることはほとんどないだろうけど、一般にあんまり良くない行為ではあるだろう。とはいえ多くの場合罪性も低い。法律違反にすべきって意味でもない。
全称命題じゃないんだから、明らかにどちらでもある行為とどちらでもない行為について言及する必要はない。殺人や万引きと食事や睡眠。ああ例外を考えなくていい、全称命題じゃないんだから。
完全に法と罪を分離できない例を挙げることもできる。『一般的な交通状況に於いてすでに赤信号になっているのを確認した上でスピードを落とさずに進む』とかはそうだ。原理として目の前にある発光体が可視光のうち長波長の場合にその方向へ近づくのは悪であるなんてことはない。でも信号無視はもはや明らかに罪悪の類いだろう。)
(これはつまり既存の西洋的な法律以外のかたちとしてしかも前時代的でもない高度なペナルティや更生、倫理の管理体系が存在できなくないことを示唆してもいるけど……それは現在の法体系より優れた、常識的で正当性があってたんなる印象に左右されず正しい事実に基づいた理不尽でないものとして実現され得るか?
制度として成立させるために特定の感情や民衆の発想はやはり切り離すべきだろうし、そうすると結局、罪性を直接評価する意味は社会的にはあんまりなさそうかな。
落としどころとしては現在の法律やそのまわりのしくみは、かなり大雑把にみてやっぱり基本的に優れているみたい。個々の法律の妥当性は知らないけど、法律制度そのものを大きく見たときによりよい代替システムは、少なくともこの辺にはなかった。
だから、これ以上何かをよりよくするために現実的な手段は、法令をより妥当なかたちに変更し続ける、または一般社会の民衆やマスメディアによる事象の解釈を改善する、つまり評価語彙を増やす、あたりになる。穏当な新しい社会システムの発想に繋げるのはちょっと難しそうだ。
でもこの価値判断の方法は個人が個人を赦すためにはよく使える。)
「道徳的評価と法的評価の間にある程度の傾向はあるにせよそれらは全く同一ではないし、いうほど似てもいない。
ここで法が広義の信仰、つまり価値の判断体系より上に来ている人間の欠点を悪法及󠄁び法律評価の理屈から批判することもできるけど、もっと、もっと根源的なこと、」
「そう、その法の位置づけって少しずれてない?これに関しては事実やそれに準ずるものじゃなくて僕の価値観だけど、法に従うべきであるという一点のみで法に従っているだけの在り方は望ましくない。自分の価値観、いま自分のものであれば、それの他者による影響の程度は問題にならない程度の『自分の』……だから、自分でされるべきである価値判断を他者に委ねていて、しかも委任先が価値判断を行う体系ではないんだから。僕は、違法行為自体の善悪と別の評価としては、法が法であるという理由だけで正しい行為をしている状態が他の内省的な途中経過のある正しくない行為より望ましい状態であるとは思わない。
違法行為を推奨しているわけではないけど、合法行為を推奨しているわけでもない。自分にとって正しいことが違法なら、きっと運が悪かった。」
「つまり、いま問題になっているのは法律に限ったことではなく大した検討もせず外部に委ねていることそのものであって、『法律がそう言うから従う』『宗教がそう言うから従う』『親がそう言うから従う』『周囲がそう言うから従う』は、判断の構造としては大体同じだよ。宗教が自分で作ったものなら少し別の評価が必要になるかもしれないけど。
意識したある事象に関して、もしかすると自分の判断は間違っていたかもしれないけど、何を正しいと考えるかについて、自分を最終的な判断者から除外しなかったのであれば行為について一定の評価を認めることができる。代替され得るという点もその理解を助けるように、法は原理ではなく評価対象だ。」
「だから法は個人の信仰より下に置くべきだ。」
「というより、人間は結局、そうする以外に自分の行為を『最低限でも』自分のものとして成立させる方法を持っていない、というだけのことかな。
自分の価値体系はゼロからいきなり発生したわけではないにしろ、その範囲内で、最低限の自律と委任の区別は可能だ。それはたとえば最終決定権の改善性の程度などに代表されて、だからその改善思想自体すらすべて他者の影響で生み出されたものであっても委任とはほんの少しだけ異なる。そして雑に委任を選んでしまう状態があんまりよくない。それを選んでしまうことをゼロから決定したわけではなくとも、そこに責任がなくとも、その状態があんまりよくない。行為自体の評価としてね。」
「未来と過去が自分のものじゃなかったとしても、少なくとも、僕らがそのとき感じている苦痛や悲しみについて、それを感じていることはずっと事実だよ。そして僕らは僕らの望むほうへ、あるいは望まないほうへ、苦しみながら進んでいく。今よいと思えることを掲げてみよう。他人には受け入れられなさそうなことでも、それまでの過程がずっと苦しくても、その終着点になんにもなかったとしても、たぶんそれでいいよ。僕は節操ない合理ってあんまり好きじゃないんだ。」



